内 容 : メンバー卓話
担 当 : 吉田龍宏君
・ 私は、自分の職業は何かと聞かれると、一番困ります。主なものをあげてみると、社会福祉法人経営者、教員、研究者、学生、僧侶といった立場をもっています。これをまとめてみると、前の4つはすべて「保育」というカテゴリーでまとめることができます。また、すべてに共通するのは、人を対象としながら自分と向き合うことになる仕事だと思います。
・ さて、シーズンとしては「お寺」のお話をすると、こぼれ話などはたくさんあると思いますが、今日は「保育」の話をさせていただきたいと思います。
・ 私が保育に関わっているのは、幼稚園で生まれ、幼稚園で育ったからだと思います。私が幼稚園に通いだした頃は、父がまだクラス担任をしていたと思います。母親も免許を持っていて、園を手伝っていました。小学生の頃から、運動会の準備など、軽トラの上に乗せてもらって、父や弟と一緒に手伝っていました。そのような経験の中で、なんとなく保育の道に進む気持ちをもち始めたのだと思います。
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・ 私は今、保育園の経営者として、保育者養成をしている学校の教員として、保育実践を研究するものとして、そして保育学を専攻する大学院生として、4つの立場で保育に関わっています。その中で、今保育の領域を巡って、もっと大きく考えると子どもをめぐって、様々な問題が出されています。
・ 最近、児童虐待や親(保護者)による子どもの殺害、あるいは子どもによる親(保護者)の殺害・致傷事件が数多くありました。大きな事件となるものだけでも直ぐに数えることができるということは、小さな事件や育児ノイローゼの状態は、ますます憂慮すべき状態になると思います。
・ こうした背景には、親子関係や地域関係の問題と「ゆとり教育」の問題が最近ではよく指摘されます。本日はこの二つについて、少しお話したいと思います。
・ 昔(戦前や戦中、戦後直後)ぐらいまでは、地域に子どもの遊び集団がありました。幼児から小学生までの大きな集団で、50人にもなるところも稀ではありませんでした。この集団は、求心性と遠心性の二つの特徴で、維持されていました。
・ この遊び集団では、子どもたちの中で(年長者から年少者へと)遊びの伝承が起こっていました。これは、年長者に対する年少者の憧れの思いが観察学習の動機や「教えて欲しい」という意欲を形成しました。しかしながら、こうした遊び集団は三つの「間」(時間・空間・仲間)の喪失により、現在では見ることが極めて困難です。こうしたことが、地域の教育力が低下している大きな要因です。さらに加えるならば、地域が生産共同体でなくなったため(すなわち消費社会になったため)、隣の人とかかわることも、隣の人への関心も、なくても生活出来るようになったことも非常に大きな要因です。
・ また、親子の間でも、親の姿から子どもに「生きる知恵」を伝えることが少なくなりました。これは、家庭生活が省力化の流れの中で、作業することを失ったためです。反面,子育ての中で「言葉」が増えてきました。
・ 日本の親子関係は、諸外国に比べて、非常に密着度が高いものです。この関係性の中で、「言葉」が増えてくると、「おせっかい」や過干渉が多くなると共に、行き過ぎると逆に「放任」を生む温床となることも多いのです。
・ また、「ゆとり教育」という言葉にも、大きな誤解があります。ゆとり教育というのは、本来は学校週5日制の中で、詰め込み教育を見直し、自ら考え、また感じる心を持った子どもを育てようというものであったと思います。ところが、今は学習内容の現象とそれに伴う「学力低下」が叫ばれています。
・ ここで考えるべきことは、何が「学力」かということです。自分が生きていくために必要なことを周りから吸収し、それを自分で考え、工夫し、また人と強調する力を育てずに、知識だけ増やしていった結果が、知識が得られなければ人間として失格であるとか、知識が得られなければ将来はないという思いを親にも子どもにもさせているのではないでしょうか。それが最近の事件の背景にあると思います。そして、そういう方が思う「学力」はやはり言葉による知識があるかどうかに尽きるのです。
・ これからの時代、様々な課題があると思いますが、私は「子どもを育てる」とか「人を育てる」というときに、言葉だけで教えるという形に疑問を感じます。言葉だけではなく、体、動き、ものの扱い、表情全てを通して伝わるもの、伝えていくことの大切さがあるのではないでしょうか。それはまさに、職人の方が技を伝承させていくように、昔の子ども達が遊びを伝承させたように、「伝承」ということが大きな教育的な意味を持つ時代ではないかと思います。 |